鹿踊りの始まりについては海外から伝来したものであるとか、大和民族の創意工夫によって始められた芸能であるとか色々の説があり明らかでないが、当地に昔から語り伝えられる伝説は次のようなものである。

 今から一〇八〇年前攝津の国の人で猿丸太夫という歌人がおりました。この人は大変狩りが好きで暇さえあれば毎日野山に鳥獣を獲ることに夢中でした。
 ところが妻はあまりに殺生に夫の無情を嘆き悲しんで何とかして思いとどまらせようと種々と説得しましたが猿丸太夫はいっこうに聞き入れようとしませんでした。そこで妻は夫が射止めた鹿のはぎ皮をかぶって裏山に伏せておりました。丁度そこへ夫が山から帰って来て思いがけぬ獲物に喜んで忽ち殺してしまいました。皮をはいで見て死ぬ程びっくりしてしまいました。それもそのはず自分の妻が死んでいたのですから。それ以来猿丸太夫は行状を悔いピタリと狩りを止めてしまいました。
 妻をとむらって一週間、墓参りに行くと八匹の鹿が墓をぐるぐる廻りながら無心に戯れていました。
 その鹿が墓に供えた四花花の間から顔を出す様子は丁度今鹿踊りが長い腰竹を背負って踊っているように見えました。そこで猿丸太夫は鹿が群が山に帰るまでジット眺め踊りのヒントを得て創案し亡き妻の菩提を弔ったと語り伝えられています。
 尚小倉百人一首の中に猿丸太夫が詠んだ「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋はかなしき」という歌がみられます。当地に発生したのは平安時代の中頃安倍氏が東北の豪族として繁栄した時代からで(今から一〇五〇年前)鶴脛の柵主安倍則任は大変獅子踊りが好きで振舞いについて批評を加えたり指導助言を与えたりして中々芸事には熱心であったと言われています。
 当時方々から鶴脛棚や胆沢城の屋根瓦を製作する為に集まった窯業者の人々も獅子踊りに対して関心が高く旺んに踊られていました。踊りは勇壮の中にも信仰の念が強く供養を行い、神々へ豊作を祈願するなど神仏と密接な連りをもって踊られていました。一時繁栄を極めた獅子踊りも康平五年源義頼、義家将軍父子がが金ヶ崎地内にある鳥海柵を陥落させ更に兵を二隊に分けて黒沢尻柵と鶴脛柵と改めて同日に陥入れた。その為則任一族は敗北して厨川柵へと落ちのびてしまう。従って鶴脛で旺んに踊られた獅子踊りも火の消えた状態となってしまうが慶長年間になって再び鶴脛の万吉の手によって今日の踊りの祖をなした。

鹿踊りとは